スペイン

第1章 バルセロナ
美しい朝だ。軽く朝食を済ませて外に出ると太陽の光が 目に射し込んでくる。湿度が低いためか肌にあたる風は心地よく、通りの大きく枝を広げた街路樹の下に入るとヒンヤリと肌寒いくらいだ。 ホテルを出て数分のところにかの有名なパトリョ邸があった。一見なんとも度肝を抜く派手なデザインの建物だが、不思議と見る人に 違和感を与えることなく穏やかにその通りに納まっている。正面バルコニーのデザインは、まるで仮面舞踏会のマスクそのものだ。 大きく刳り貫いた左右の空間は昆虫の、それもカマキリのあの大きな眼を連想させる。どこを見ているのか分からない 大きな眼で周りを見据え用意周到に次の動きを計る様は、まさしくあのバルコニーからそういう眼差しで通りを 行き交う人々を半世紀以上に渡って観察してきたのだろうか。

まだ午前中の早い時間だったので通りにはさほど人も出ていなかった。それでも観光客を相手にしたコーヒーハウスが何軒か開いていた。 こざっぱりした身なりの老夫婦が街路樹の下に置かれた緑色の小さなテーブルに観光地図を半分ほど開いたまま二人で何を語るでなくただ ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。別のテーブルではコーヒーのカップには手も触れず一心に本を読んでいる二十代後半の女性がいた。 彼女の赤く日焼けしたむき出しの肩には金色の産毛が光っていた。

この街はマドリッドと違って何かおっとりした雰囲気がある。足の向くまま気の向くままに通りを歩いていると観光スポットとして誰もが 尋ねる場所以外に何か心引かれる物に出くわす。地図で確かめても出ていない。土地の人らしい人にその故事来歴を聞いてみると 歴史的、美術史的に大いに影響を与えた建造物であることも意外と多い。 勿論、観光の定番であるカサミラ、聖サグラダファミリア、グエル公園、ダリ、ミロ、ピカソの美術館、衣装博物館・・・等々、 この街の多様性も度肝を抜かれるほど楽しい。中世の通りをそのまま残すモンカタ通りもいうまでもない。

足に任せて大きな通りや小さな路地裏を歩いていたら港に続くランブランス通りにでた。賑やかである。 色鮮やかな花の束が足元に並べられた沢山のバケツに無造作に入れてある。果物を積み上げた大きな屋台ではおやじさんが ビールのジョッキを片手に客と話し込んでいる。この通りは真ん中が遊歩道になっていてその両脇に車道が走っている。 歩道にはプラタナスの街路樹が長く続いていて涼しい日陰を作っている。歩いていて何とも楽しい通りだ。まったく退屈することはない。 大道芸人が取り巻きの観客に拍手をもらったり、彼の予測できない動きに小さなどよめきがあがったりしている。

ここはアーテイストの自己主張の場所でもある。思い思いの衣装で誰かを演じきっている。立ち止まって見ている通行人の張り付くような 視線をものともせず、身じろぎもしないで一定の姿勢を保ち続けている。そんな中にローマ神話の女神がいた。全身見事なまでの緑である。 裾を長く引きずったシホン風の布に包まれて遠くの一点を見つめて立っていた。凛とした風貌の美人である。品があった。当然投げ銭も一番多いようだ。 記念撮影の希望者もしきりである。その女神は表情も変えずに希望した者と写真におさまっていた。何故か女神と一緒の写真を希望したのは男達と小さな女の子達だった。

オートバイでやって来た30代半ばの男が街路樹に寄りかかって先ほどからそんな彼女をじっと見ていた。人だかりも一息ついたとき、 その男は足早に彼女の側まで行くと二言三言繰り返し言葉をかけた。女神の足元の投げ銭の容器に紙幣を入れてまた声をかけた。 そして小さく裂いた紙切れを彼女に渡した。それまで微動だにしなかった緑の女神が少し微笑んでいる。しかし、何となく所在悪そうな顔で じっと立っているだけだ。諦めたのかその男はついにその場を立ち去った。が、何と男は通りの反対側に止めていた自分のオートバイを大きくU ターンさせて女神に横付けしたのである。ヒョイとオートバイから降りると女神に最後の一言を残して疾風のように走り去って行った。

男の後ろ姿には何か自信めいたものを感じた。けして長身ではないが美しく日焼けしたその体躯でオートバイにまたがり、 ヨーロッパのあちこちを気の向くままにツーリングしてきたのであろう。余計な筋肉の付いてない浅黒く引き締まった男 の体には白いTシャツの上に着た黒皮のベストとパンツがよく似合っていた。不思議と不良っぽさは微塵もなくむしろ清潔感があった。 その証拠に、くだんの緑の女神も走り去るオートバイの男の後ろ姿をジーっと目線だけで見送っていたのが印象的だった。


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