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起きあがることもままならなくなった母に薔薇の花の香りを思いっきり吸い込んでもらいたくて25本のワインカラーの
薔薇を、父には外の季節を五感で味わってもらいたくて今が旬の桃を持って陽だまりの中の病院を訪ねた。 まず先に父の部屋を訪ねた。父は顔色もよく元気そうだった。前日病院に電話をして、父に桃を持って行くことに問題はない ことを確認していた。薔薇は本数が多かったので片手で下向きにさげて持つとずっしりと重かった。父にも薔薇を生けて あげようと家から持ってきた花瓶をリュックから出していたら、母さんのとこに全部持っていってあげなさい、母さんは花が 大好きだからそのほうがきっと喜ぶよ、と父が言った。確かにそうかもしれない。 そこで、父には桃を出してあげた。まわりを十分に保冷材で包んでいたので桃は丁度食べごろに冷やされていた。うぶ毛がかす かに光る桃の皮をナイフでやさしく剥ぐようにむくとその甘い香りが広がった。あー、いい匂いだ、と父が言った。 6等分に切った桃をまず一切れ小皿に載せて父に渡すと、父は自分でフォークに刺した桃の一切れを上手に口に運んだ。そのあと 父は、冷っこくてうまい、と言いながら続けてもう2個を平らげた。最後に小皿にたまった果汁を私が指差すと、さすがにこれは いい、と父は首を振りながら笑って私に小皿を返した。父と30分ほど話したあと、父が座っている車椅子を押しながら母の部屋 に向かった。 母は寝たままの状態で時々大きく息をしていた。声をかけたが目を閉じたままで何の答えも返ってこなかった。父が車椅子のまま 母のそばに行き、母さん、邦ちゃんが来てくれたよ。分かるか・・・、と同じ言葉を3回繰り返して言った。私も母の耳のそばで 何度も大きな声で話しかけた。私は母の手をさすったり頬をなでたりして語りかけていた。母の表情を観察していたら、呼びかけ に反応しているのだろうか・・・?薄い瞼の下で眼球が小さく動いていた。 私は持ってきた薔薇を花瓶に入れてあげようとその太い束を解いていた。花瓶に挿す前に1本の薔薇を母の鼻に近づけてみた。 しかし、あまり近づけすぎたので母の鼻に触ってしまい母はうっとおしそうに何度か首を振った。薔薇の花よ、いい匂いでしょ、 と私が説明しながらまた花を近づけると、薔薇の花の香りと認識したのか、母は目を閉じたまま頷いた。私が薔薇を2−3本づつ 母の顔に近づけると母は僅かに首をずらしながら匂いの方向を確認していた。母の瞼は閉じたままだった。 母が胸の上に置かれたバラの花束を抱けるように私は母の両腕をそのバラの花束の上でクロスさせた。嫌がるだろうな、と思って 様子を見ていたら、明らかに母の表情が違った。さすが花好きの母だ。花の姿は見ていなくても母の頭の中ではいろいろ想いが巡って いるに違いなかった。看護婦さんも傍にきて、わー、いい匂い、こんなに沢山の薔薇を、良かったですねー、と大きな声で母の耳元に 話しかけていた。 長い茎は切らないまま持ってきたのであまり長いこと胸に乗せていると疲れるだろうと思い、胸の上から花を下ろそうとすると母は 花を取られまいと両腕に力を込めて抵抗した。そうやって何度か抵抗を繰り返したあと、やっと母は両腕を緩めてバラを開放してくれた。 挿したバラの花が花瓶にきれいに収まると甘い香りが病室をやわらかく満たしていった。気のせいだろうか、母の顔は先ほど病室に 入ってきたときに見た母の顔よりもずっと穏やかだった。 母の感覚がまだしっかりしていることが嬉しくなり、私は持ってきたもう一個の桃を出して母の顔に近づけた。いま、桃の季節よ。 分かる?と問いかけると、その桃独特の甘い香りに母はすぐに反応した。母の手を取って桃の肌を触らせてみた。これ桃よ、分かる? と聞くと母はゆっくりと頷いた。 私は桃の匂いを楽しんでもらおうと考えて母の鼻先に桃をぐっと近づけた。母は桃の香る方に口を近づけ口を大きく開けた。食べたい? と私が聞くと、うんと頷いて何度も口を開いて食べるしぐさをした。看護婦さんもそのしぐさを見ていたので、母に桃を食べさせて あげたいと看護婦さんに相談すると、それは駄目ですよとたしなめられた。母の目は閉じたままだったが目の前にあるであろう桃の 匂いから、母は大好きな桃がそこにあることを理解していた。母は自分でその甘い桃を食べている姿を思い描いているに違いない。 そんな母の姿を目の当たりにした私は切なくなった。何と残酷なことをしたのだろう。私は自分の行動を後悔していた。母に一切れ でもこの旬の果物を食べさせてあげたかった。もし、食べることが叶わなくとも、その甘い桃の果汁を舌に乗せてあげたかった。 五感が一つずつでも蘇るのであればそれを叶えてあげたかった。意地悪をするつもりなど毛頭なかった。結果としてこんな惨めな思い をさせてしまったことを母に詫びた。 疲れたからと先に部屋に戻っていた父のところに戻りまたそこでしばらく時間をつぶした。父は、時々母さんのところに顔を出して いるけど、母さんに問いかけてもほとんど言葉が返ってこないから寂しい、と言った。 父が喉が渇いたというので先ほど切り分けて残しておいた桃を勧めると、保冷材が効いていて冷たくて美味しいと言って全部食べてくれた。 母さんは結局、桃は駄目だったろう?と父が言った。おかあさんに悪いことをした、と私が言うと父は、気にすることはないよ、邦ちゃん の気持ちは母さんにちゃんと通じているから、と慰めてくれた。切なかった。 一個丸ごと残ってしまった桃を後で食べやすいように切っておいてあげましょうか、と父に尋ねると、今日はもういらないからと言って、 ここに残しておいても不味くなるだけだから持って帰って邦ちゃん食べて、と父が言った。 その晩ふと父のところから持ち帰った桃のことを思い出した。冷蔵庫で適度に冷えた丸く大きな桃を取り出した。夜遅くその桃を口に頬張っ ていたら、桃を食べたいと口を開きゆっくりと食べるしぐさをしていた母の顔が脳裏に浮かんで涙が止まらなくなった。結局、私は桃を 半分しか食べることが出来なかった。人間が歳を取ることの意味・・・残酷さと尊厳の狭間で自分の来し方行く末を想うとその夜は全く 眠ることができなかった。(2006.8.21) |
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