K's 詩歌工房

短歌 俳句 川柳 自由詩


    

  • ・ 一際に輝く星を母と視て来し方語らう旅の機中に

  • ・ いくばくの球根眠るベランダにターシャチューダの花やぎを待つ

  • ・ 若き日のあの夏の日に馳せ戻る図書館わきの青い花房

  • ・ 1/f のゆらぎを糧として清く生きよと不器用な我

  • ・ あるはずの星空さえも掠め取る24時間営業の店

  • ・ 畦道の緋色のコスモス摘みかえり白き画帳に秋風を刷く

  • ・ 読み止しの本の栞に走り来て無心に戯ぶ緑なる鳥

  • ・ 時雨来て男時女時の綾なせる今この時を如何に生きなん

  • ・ さび色の母が選びし我が晴れ着母の着付けを待ちて叶わず

  • ・ 卯の花忌母の集めし錦布纏うことなき木目込み人形

  • ・ 浴槽に笹舟浮かべ波立てる小さき腕の幼子の笑み

  • ・ コロコロと笑い転げる童子らの手にクワガタ カミキリ カナブンもいて

  • ・ 虫集く小さき庭の片隅に闇まだ落ちぬ鬼灯の紅

  • ・ 不死鳥の羽と見紛うペルセウス富士の高みにキラ星の雄

  • ・ ムラノ島特異の赤の溶け込みし天馬が運ぶ薫りベネチア

  • ・ 空ろにて重き心を誰知らん窓辺に揺れるヒューシャにも似て

  • ・ 我が旅の無事を祈りしお守りを届け来し友ガンに散り逝く

  • ・ ”クキョ、空虚、クキョ”一日もの言わず鳥の唄聴く

  • ・ ツノメドリ訪ねて遠きテインバーの空延びやかに藍に溶け入り

  • ・ 青空を両翅に乗せて舞い踊る今を命とウスバカゲロウ

  • ・ 両の手にふうわり舞いて降りる雪つかみて消えし哀れ初恋

  • ・ 我が人生に節目無しこの筒っぽに花生けようかありったけ

  • ・ 天を突く真白き峰の麓にやさしき貌の羊ら戯ぶ

  • ・ 何処より運ばれ来しか棘枝に止まりて羽毛は微風を待つ

  • ・ 放浪の旅に持ちゆく時刻表押し花の香で旅を終わりぬ

  • ・ うたた寝のセキセイインコわが肩に心ゆだねてゆ〜らり揺れて

  • ・ 中世の息吹残りしペガサスの背に走りたるベネチアの赤

  • ・ 陽だまりの葉裏に光る水玉を甘き蜜かと走り寄る蟻

  • ・ 夏日さす青葉の葉陰ひんやりと翅を休めて鬼やんま

  • ・ ポケットの握りこぶしも震えたるあの悲しみの息凍る午後

  • ・ 清流も丹色に染めるブナ林に入りて沈まん落ち葉ふかふか

  • ・ 評判の店を訪ねて寂しさにテイクアウトに変えしその午後

  • ・ こんなにも想いつないで若き日の君の言葉に戸惑う我あり

  • ・ あっけなき友との逝れ約束の夏を旅して独り見る浮雲

  • ・ 美しきボヘミアの森夕暮れて赤き太陽ゆ〜らゆら落ちて

  • ・ 山の端に丹色の雲のいく筋も光りて谷に降りる夕暮れ

  • ・ 島影を包んで遠く集魚燈波たち割りて踊る銀鱗

  • ・ 頑なに閉じ込めおきし我が想い今をこの機と大海に漕ぎ出ん

  • ・ 渡されし君が詩集に挟まれし藍のしおりの匂い清しく

  • ・ 知りたくてわが生い立ちを尋ぬれば猫引き寄せて母は語らう

  • ・ 目力の失せたる母を前にして尋ねたき事すべて仕舞いぬ

  • ・ 時にして女は心外見は一時そう言いのけし君も人の子

  • ・ 風揺らぎ地に映りたる葉の影にあの薄墨の遠き思い出

  • ・ ショパンでも駆け出して来そうなドアありて猫のまどろむ古の家

  • ・ 背を立ててスックと歩む碧眼の群れに際立つ黒髪の我

  • ・ 清しさを未だ残したる枯れ花を慈しみつつ片付ける朝

  • ・ 訪ね来て熱く語りしわが友の余命6月と知らされし夜

  • ・ 夜を徹し語り通した熱き夢ワインに酔ってたわけではないの

  • ・ 夢託しそっと放した青い鳥何処で寄り道してるやら

  • ・ CDも画集も飽きた。花鉢に水差し終えて黎明を待つ

  • ・ 華模様、 心模様に色模様みんなこの身を飾るものなの?

  • ・ デカルトの教えは遠く迷い道、喩えも虚し生きる礎

  • ・ 夢日記遅い春ほど暖かい信じて過ぎた五十と半ば

  • ・ カタコンベ私が私であることにどんな定理があるのだろう

  • ・ 逝き人に尋ねたきこと永遠の世界はありやなしやと

  • ・ 忌まわしきアウシュビッツの鉄条網今は昔と錆びに崩れて

  • ・ ハンブルグ贅を賭けたる市庁舎は城も館も無い街が故

  • ・ ポンペイの古き館の玄関に猛犬注意のモザイクタイル

  • ・ 冷戦の狭間を旅して驚愕の統治と国と民のバランス

  • ・ モロッコの赤き砂山駆け下りて商い急ぐベルベルの民

  • ・ 懐かしく来し方語る君がいて淋しくないかと心射ぬかれ

  • ・ エンリケの贅を運びし帆船に海図失くせし石の群像

  • ・ 世界中名だたる画家の絵を前にその才能の羨ましくあり

  • ・ 早朝のアルケマールのチーズ市ギルドの色の帽子鮮やか

  • ・ 偶然の確率なんて信じないあっけなく覆される必然も良し

  • ・ 食の幸、冬根春菜に夏果実 秋は丸ごと山食らう

  • ・ 白百合をはるかに凌ぐ花ありてそれにも勝る花は白百合

  • ・ せわしなく波たて泳ぐ幼鳥の背にひとひらの若葉止まりて


    

  • ・ 寂しさも届かぬ草の青さかな

  • ・ 唐突に紅葉開けて山小径

  • ・ ありんこの触覚踊る秋日向

  • ・ 幼子が紅葉時雨の精に見ゆ

  • ・ 早々とつぼみ開いて冬の花

  • ・ 寂しさに迷いて雪のむくろ踏む

  • ・ 幾千の玻璃の青空石榴かな

  • ・ 雨走り俄かに山の匂い立ち

  • ・ 端居する母の膝にも月明かり

  • ・ 匂い立つ紅葉に雨の重さかな

  • ・ 静けさの極みなりしや野分きあと

  • ・ 東屋に居ながら巡る花菖蒲

  • ・ 泣き顔の頬緩ませるネコジャラシ

  • ・ ひとしきり雨音聴いて蛙鳴き

  • ・ てっせんの何げに青の二つ三つ

  • ・ 春雷の走りて遠く空ふたつ
       
  • ・ 真昼野に弾けるがごと青葉立つ

  • ・ それだけの風にタンポポ旅立てり

  • ・ 犬の尾をしっかとつかみ花つむ童子

  • ・ 何ゆえかこの寂しさに花明かり

  • ・ 青い風振り向いて知るいぬふぐり

  • ・ 散水車闇白むほど水弾く

  • ・ 柿ひと葉虫ひそやかに冬支度

  • ・ 山の端に月ほの白く宵桜

  • ・ コスモスが四方八方にゆれている

  • ・ 五月陽に露止まらせて枝光る

  • ・ 日の入りを待ちて訪ねし宵桜

  • ・ 山影に鳥鳴き入りて夕陽落ち

  • ・ 里山の影重なりて満ちる月

  • ・ 魚はねて波ほのじろき星月夜

  • ・ 花枯れてなおあまりある青葉かな

  • ・ 月の出を待ちて川面にほたる影

  • ・ 瓜かずら一足早いクリスマス

  • ・ 老いの手に零れるほどの花の種子

  • ・ 躓きて蹴り上げし石垣を越え

  • ・ 金木犀薄暮の辻を回り道

  • ・ 猫の尾ののったりのたり冬日向

  • ・ 赤い実の枝たわむほど小鳥来る

  • ・ 通り雨流れに遊ぶはないかだ

  • ・ 日向ぼこ手折りし梅も猫もいて

  • ・ 夕暮れてなお落ち葉する大銀杏

  • ・ 田起こしの後追う鷺の足軽し

  • ・ 窓越しの月まだ冴えて空半ば

  • ・ 晩秋の光弾いてあわれ雪虫

  • ・ 水面も持ち上がるかとアメンボウ

  • ・ 旅の香を押し花にして本の虫

  • ・ 幼子の指差す先に赤トンボ

  • ・ 一通り色揃えしか花菖蒲

  • ・ いかんせんこの淋しさも旅半ば

  • ・ 牛の尾の右に左に昼の月

  • ・ エンリケの想い懸けたるひしゃく星

  • ・ 夕暮れて尾白き猫の辻曲がる

  • ・ 泥土も風情と見たり水仙花

  • ・ 湯煙の水面に揺れる大観望

  • ・ 連凧に思いを繋ぐ力こぶ

  • ・ 銀翼も吸い込まれしか真澄空

  • ・ 薄紅の頬染め尽くすひつじ草

  • ・ 清流に足踏ん張ってアメンボウ

  • ・ 花ごよみ覚えし花もまだ足りず

  • ・ うす雲を透して月の細さかな

  • ・ 浮雲を幾つ数えて里に入り

  • ・ 歌詠みもハーフムーンに促され

  • ・ 気配なき灯ともし頃の沈丁花

  • ・ 安らぎの我逝くところ春の土

  • ・ 秋祭り夜なべの服も間に合わず

  • ・ うたた寝の頬にひんやり青畳

  • ・ 七回忌友の愛でたる寒椿

  • ・ 雲晴れて谷を賑わす草紅葉

  • ・ 曲がり枝つと止まりおり紅一輪

  • ・ 陽だまりのふくらむ先に沈丁花

  • ・ 幼子やもろ手広げて春を駆け

  • ・ 涸れ沼の真中に見たりいわし雲

  • ・ 立つ雁の鳴声(こえ)飄々と沼を越え

  • ・ 白沢の諭すが如し雨しきり

  • ・ 人ごみに消えて神社の梅木立

  • ・ 黒繻子のうなじ揃いて勝参り

  • ・ しめ縄を張りて千歳の大社

  • ・ 尾しろく光りて谷に風迅る

  • ・ 松枝にかかリて薄き雪衣

  • ・ いささかの華やぎもなきこぞの春

  • ・ ひと刷けの墨乾く間の菩薩かな

  • ・ うかれてもばかりいられぬ大晦日

  • ・ 息を呑む紅葉の下に冬支度

  • ・ 氷筍を溶かして里の土動く

  • ・ 深雪に火宅を忘る芽吹きあり

  • ・ 傷癒えて後追い来しか放たれし鳥

  • ・ 一周忌ははの匂いの水蜜桃

  • ・ 落葉松を愛でる間もなき秋釣べ

  • ・ 潮時を待ちて弾けるホウセンカ

  • ・ 曙光に白き大地の影うねる

  • ・ 万葉のつり橋揺らす蝉しぐれ


    

  • ・ほどほどという遺伝子を置き忘れ

  • ・為政者は民はさておき我が福利

  • ・あれだけの約束さえも反故にされ

  • ・雪解けの頃に戦争始まりぬ

  • ・人間の叡智の極み核戦争

  • ・為政者は正義を謳い人食らう

  • ・人救うはずの教義で人殺め

  • ・かろうじて命もらいて苦悩の日

  • ・弱国のプライドまでは奪われず

  • ・目くらまし投げてなんぼの政治ショー

  • ・御大将日本国をもぶち壊し

  • ・サミットでカタカナ連呼の有頂天

  • ・ 真ん中に立ちて一人ご満悦

  • ・祝宴で天下取ったと見得を切り

  • ・丸投げと言葉遊びで座を持たせ

  • ・世の流れ読んだつもりが流された

  • ・粛正に粛清重ね頬かむり

  • ・四世の政治畑に新芽なし

  • ・弱者迫害強者重用政治屋の常

  • ・デカルトの訓え適わぬ迷い道

  • ・厚化粧まだ足りぬかと髪を染め

  • ・信心に縁なく飾るクリスマス

  • ・Eメール絵文字で詫びて仲直り


         

「知ってるかい」

シオカラトンボがぼくの指に止まったら
大きな足でガシッと指にしがみつくよ

アゲハチョウが指に止まったら
細〜い足でチョコッと指につかまってるよ

てんとう虫が指に止まったら
トコトコ、トコトコ指のてっぺんまでのぼってゆくよ

コメツキバッタが指に止まったら
太〜い足をバネにしてバーンと空にとび出すよ

でもね、カマキリはちょっと怖いからまだ止まらせてないんだ
(2006.8.5)



「浜辺」

今日、みんなで浜辺に遊びに行ったよ

おおきい兄ちゃんがぐるぐる巻きのかいがらを拾ったの
バシャ、バシャ、バシャ、走って波打ちぎわに戻ってきたよ

小さい兄ちゃんがうす青色の小さな魚を見つけたの
パチャ、パチャ、パチャ、走って波打ちぎわまで教えにきたよ

ちっちゃいわたしはペタンコのまーるい小石を拾ったの
ピチャ、ピチャ、ピチャ、走ってみんなに見せに行ったよ

波から逃げる足音はみんな、みんな違うんだね
(2010.7.28)



「お日様」

ママがベランダにほしていたおふとんをはこんできた
お日様の光がいっぱい入ったおふとんだ

そのまま押し入れにしまうのがもったいなくて
お部屋いっぱいにおふとんを広げた

その上に思いっきり寝ころんだらお日様の匂いがした
ふんわか、あったかくて気持ちいい

手のひらをいっぱいに広げておふとんにくっつけた
カエルの吸盤みたいだ

おふとんの中にいっぱい入っていた柔らかい風が
しゅわーとでてきた

あったかくていいにおいだ
風もにおいもぼくには見えないのに

なんでこんなに気持ちがいいのかな
なんだかそのまま眠ってしまいそう
(1993.5.30)



「旅へ」

旅立ちの朝、ピースケがウエットな目でジーッとわたしを見つめていた
「ゴメンネー!」 と言って抱きしめるしかなかった

視線をそらすことなく、身じろぎもせず、出て行くわたしの後姿を
ただひたすら目で追っている
ごめんねー ピースケ!

心を鼓舞する何かを求めて、わたしはまた旅に出ます
日常の生活で、嫌なものに出会うことが増えてきました

そんなものでも好きになれるように、心のフィルターを外してまた旅に出ます
(2004.7.28)



「生命のロンド」

何だろうこの漠然とした不安
すべてを否定するこの虚無感

約束の未来が見えなくとも
あんなにも果敢に挑戦していた日々があった

成就したもの?
答えることすら虚しい

自分の重みで形を変えていく砂丘の如く・・・

太陽が岩を砕き
水が石を削り
風が小石を砂に変える
そして乾いた風が風紋を創る

砂漠の風は二つと同じ風紋を残さない

岩のように大きかった夢も
小さく砕かれ砂礫と化し
決して残されることの無い風紋を描きながら
乾いた砂漠に帰るのだろうか

でもまだ夢を見る気力はある

大きく重なり合った雲が雨を創り
雨は緑に命を吹き込む
緑は命をつなぎながら葉を落とす

緑は死なない

朽ち果てた葉は幾千穣もの微生物を育て
やがて土と化す

土は命を孕む

土はまた緑を育て、豊穣の森が雨を創る
雨は深く地中に入り力強い根を伸ばす

がっしり土を掴んだ根っこは中空に緑を繁茂する

まがうことなく未来の私はそこにいる
これぞまさしく生命のロンドだ
(1999.3.20)



「信頼」

僕は歩く
ただひたすら主人の目となって歩く
雪の道、泥の道、照り返す道
主人を気遣いながら黙もくと歩く
   僕のただ一時の安らぎは
仕事のあとの主人との戯れ
そんな時は身をよじって思いっきり甘えるのだ

また朝が来た
どんなにおねだりしたくても、もう僕には自分の時間は無い
自分を律し主人を守り通す一日が始まる
これはお散歩なんかじゃない

これは闘いだ
主人の愛と信頼がハーネスに伝わる
だから僕は迷うことなくその信頼に応えるのだ
そして僕達は明日も確実に歩く
お互いの温もりを感じながら
(1995.6.18)



「寂」

寂しさを人一倍知っている君だから
人を優しく思いやれるんだね
寂しさってまんざらでもないね
(1997.11.29)



「光」

朝の光は母の厳しさ
夕べの光は父の優しさ
  そして
わたしの心のうつろいは
昼の木漏れ日
(1997.4.14)



「小さな巨人」

想像の世界を失くしてしまった人生を生きる無意味さを
君は分かるだろうか
現実の世界でしか生きられなくなっている自分自身に
君はおののきを覚えないか
時には小さな巨人の世界へ旅立つことを
君にも勧めよう
(2007.4.13)



「薔薇と水密桃」

起きあがることもままならなくなった母に薔薇の花の香りを思いっきり吸い込んでもらいたくて25本のワインカラーの 薔薇を、父には外の季節を五感で味わってもらいたくて今が旬の桃を持って陽だまりの中の病院を訪ねた。

まず先に父の部屋を訪ねた。父は顔色もよく元気そうだった。前日病院に電話をして、父に桃を持って行くことに問題はない ことを確認していた。薔薇は本数が多かったので片手で下向きにさげて持つとずっしりと重かった。父にも薔薇を生けて あげようと家から持ってきた花瓶をリュックから出していたら、母さんのとこに全部持っていってあげなさい、母さんは花が 大好きだからそのほうがきっと喜ぶよ、と父が言った。確かにそうかもしれない。

そこで、父には桃を出してあげた。まわりを十分に保冷材で包んでいたので桃は丁度食べごろに冷やされていた。うぶ毛がかす かに光る桃の皮をナイフでやさしく剥ぐようにむくとその甘い香りが広がった。あー、いい匂いだ、と父が言った。 6等分に切った桃をまず一切れ小皿に載せて父に渡すと、父は自分でフォークに刺した桃の一切れを上手に口に運んだ。そのあと 父は、冷っこくてうまい、と言いながら続けてもう2個を平らげた。最後に小皿にたまった果汁を私が指差すと、さすがにこれは いい、と父は首を振りながら笑って私に小皿を返した。父と30分ほど話したあと、父が座っている車椅子を押しながら母の部屋 に向かった。

母は寝たままの状態で時々大きく息をしていた。声をかけたが目を閉じたままで何の答えも返ってこなかった。父が車椅子のまま 母のそばに行き、母さん、邦ちゃんが来てくれたよ。分かるか・・・、と同じ言葉を3回繰り返して言った。私も母の耳のそばで 何度も大きな声で話しかけた。私は母の手をさすったり頬をなでたりして語りかけていた。母の表情を観察していたら、呼びかけ に反応しているのだろうか・・・?薄い瞼の下で眼球が小さく動いていた。

私は持ってきた薔薇を花瓶に入れてあげようとその太い束を解いていた。花瓶に挿す前に1本の薔薇を母の鼻に近づけてみた。 しかし、あまり近づけすぎたので母の鼻に触ってしまい母はうっとおしそうに何度か首を振った。薔薇の花よ、いい匂いでしょ、 と私が説明しながらまた花を近づけると、薔薇の花の香りと認識したのか、母は目を閉じたまま頷いた。私が薔薇を2−3本づつ 母の顔に近づけると母は僅かに首をずらしながら匂いの方向を確認していた。母の瞼は閉じたままだった。

母が胸の上に置かれたバラの花束を抱けるように私は母の両腕をそのバラの花束の上でクロスさせた。嫌がるだろうな、と思って 様子を見ていたら、明らかに母の表情が違った。さすが花好きの母だ。花の姿は見ていなくても母の頭の中ではいろいろ想いが巡って いるに違いなかった。看護婦さんも傍にきて、わー、いい匂い、こんなに沢山の薔薇を、良かったですねー、と大きな声で母の耳元に 話しかけていた。

長い茎は切らないまま持ってきたのであまり長いこと胸に乗せていると疲れるだろうと思い、胸の上から花を下ろそうとすると母は 花を取られまいと両腕に力を込めて抵抗した。そうやって何度か抵抗を繰り返したあと、やっと母は両腕を緩めてバラを開放してくれた。 挿したバラの花が花瓶にきれいに収まると甘い香りが病室をやわらかく満たしていった。気のせいだろうか、母の顔は先ほど病室に 入ってきたときに見た母の顔よりもずっと穏やかだった。

母の感覚がまだしっかりしていることが嬉しくなり、私は持ってきたもう一個の桃を出して母の顔に近づけた。いま、桃の季節よ。 分かる?と問いかけると、その桃独特の甘い香りに母はすぐに反応した。母の手を取って桃の肌を触らせてみた。これ桃よ、分かる? と聞くと母はゆっくりと頷いた。

私は桃の匂いを楽しんでもらおうと考えて母の鼻先に桃をぐっと近づけた。母は桃の香る方に口を近づけ口を大きく開けた。食べたい? と私が聞くと、うんと頷いて何度も口を開いて食べるしぐさをした。看護婦さんもそのしぐさを見ていたので、母に桃を食べさせて あげたいと看護婦さんに相談すると、それは駄目ですよとたしなめられた。母の目は閉じたままだったが目の前にあるであろう桃の 匂いから、母は大好きな桃がそこにあることを理解していた。母は自分でその甘い桃を食べている姿を思い描いているに違いない。

そんな母の姿を目の当たりにした私は切なくなった。何と残酷なことをしたのだろう。私は自分の行動を後悔していた。母に一切れ でもこの旬の果物を食べさせてあげたかった。もし、食べることが叶わなくとも、その甘い桃の果汁を舌に乗せてあげたかった。 五感が一つずつでも蘇るのであればそれを叶えてあげたかった。意地悪をするつもりなど毛頭なかった。結果としてこんな惨めな思い をさせてしまったことを母に詫びた。

疲れたからと先に部屋に戻っていた父のところに戻りまたそこでしばらく時間をつぶした。父は、時々母さんのところに顔を出して いるけど、母さんに問いかけてもほとんど言葉が返ってこないから寂しい、と言った。

父が喉が渇いたというので先ほど切り分けて残しておいた桃を勧めると、保冷材が効いていて冷たくて美味しいと言って全部食べてくれた。 母さんは結局、桃は駄目だったろう?と父が言った。おかあさんに悪いことをした、と私が言うと父は、気にすることはないよ、邦ちゃん の気持ちは母さんにちゃんと通じているから、と慰めてくれた。切なかった。

一個丸ごと残ってしまった桃を後で食べやすいように切っておいてあげましょうか、と父に尋ねると、今日はもういらないからと言って、 ここに残しておいても不味くなるだけだから持って帰って邦ちゃん食べて、と父が言った。

その晩ふと父のところから持ち帰った桃のことを思い出した。冷蔵庫で適度に冷えた丸く大きな桃を取り出した。夜遅くその桃を口に頬張っ ていたら、桃を食べたいと口を開きゆっくりと食べるしぐさをしていた母の顔が脳裏に浮かんで涙が止まらなくなった。結局、私は桃を 半分しか食べることが出来なかった。人間が歳を取ることの意味・・・残酷さと尊厳の狭間で自分の来し方行く末を想うとその夜は全く 眠ることができなかった。(2006.8.21)


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