ポズナン→グダンスク→ワルシャワ→クラクフ→ヴロツワフ→ヴィエリチカ→アウシュヴィッツ→ビルケナウ プリモ レーヴィの心の叫びを確認したくて、ドイツ、ポーランドを旅しユダヤ人強制収容所跡地を訪ねた。今の混沌とした世界を思う とレーヴィの投げかけた言葉 "これが人間か" が今更ながら心に強くのしかかる思いであった。 「自由は言葉の原点である筈なのに人類は過去から何も学んでいない。21世紀になっても殺戮、抑圧、抑止の時代は続いているし、 将来もずっとこれは続くだろう。もはや自分の役割の意味すらない。」 ・・・プリモ レーヴィはこの言葉を残して1987年自宅 マンションのエレベーターホールに自ら身を投げて死んだ。 レーヴィはムッソリーニに反抗してパルチザン活動中にイタリア・スイス国境の山中にあった隠れ家で逮捕された。その一年後アウシュ ヴィッツに送られ連合軍に解放されるまでの約2年間収容所でナチスの強制労働に従事させられた。同時期に収容所送りとなった囚人 600人中125人が強制労働へ、残りはガス室送りとなり、無事収容所を出られたのはわずか3人であった!くしくもその3人の生存者 の中の一人がプリモ レーヴィであった。 トリノに戻ってほどなく、本来は化学者であった彼はこのおぞましい経験を広く世界に知らしめるべく強い使命感を持って作家活動に 入った。しかし彼の思いとは裏腹に彼のテーマである人類共存の思想を世代を越えて定着させることの難しさ、若者たちの無関心さが 彼の虚無感を日々増幅させていった。その上、ユダヤ人である彼にとってイスラエルは聖地であるはずだったが、そのイスラエルの国の あり方に彼は疑問を抱いていた。 そして1982年のヨルダン侵攻が彼の思考を決定的なものにした。 ”イスラエル=ユダヤの民”がユダヤ人として過去から何も学んで いないことに絶望し、彼自身が体験者として伝承することに限界を感じていた彼は自ら死を選んだのだ。”Se questo e un uomo”、これが人間か!! 彼には生きた証としての三つの数列がある。生年ー1919、没年ー1987、そして174517−アウシュヴィッツで腕に刻まれた 彼の囚人番号である。 |