第1章 ポントルソン [モンサン・ミシェル]パリのモンパルナス駅から列車で1時間程のシャルトルの大聖堂を見に行った。 その内部のステンドグラスの美しさは予想を越えていた。 壁を隔てた外のざわめきとは対照的に、静寂の中で高窓から射し込む淡い乳白色の光が聖堂内のひんやりとした空気と同化しながら 私を柔らかく包み込んでいた。眼を移すとグリサイルの丸窓から幾筋もの青い光がゆっくりと落ちて来ているのがわかる。 その青い光はあたかも海の底の静けさであった。聖堂内には私一人しかいない。それは心の安らぎと不安をない交ぜにした、まさしく超然的畏怖すらも見るものに抱かせてしまうような空間だった。 そんな余韻を残しながらブルターニュ沿岸にある小さな漁村、ポントルソンに列車で向かった。混雑する列車の中でバックパッカーの若者達と 座席を譲り合って数時間が過ぎた。各駅停車の車内が急にざわめき出した。通路も見えないぎゅうぎゅう詰めの中で、乗客達が小さな隙間を器用に利用しながらお互いの大きな荷物を出口のほうに リレーしている。乗客の3分の2がポントルソンで下りた。 小さな村だ。ホテルも何も予約していない私はこの小さな村の限られたホテルを片っ端から探した。時期的に一番の稼ぎ時らしく何処も満室だった。 万策尽きて情報を仕入れるために駅の側の居酒屋に入った。ブルージーンに洗いざらしのシャツを着た赤ら顔の男達が4〜5人ビールを飲みながら陽気に話し込んでいた。 中の一人がカウンターの中に居た男を指差して、アイツに聞くといい・・・と笑って応えてくれた。カウンターの中の男はその居酒屋の主人だった。 彼の姪がバカンスで夏の間留守にするのでその間、二階の彼女の部屋を旅行者に提供しているという。料金を確認したら若干安いかなと思ったが、それでも他のホテルとさほど 変わらなかった。しかし躊躇をしている余裕はなかった。私は二つ返事で部屋を所望した。何はともあれ一安心。鍵を受け取り二階に案内されて驚いた。さっぱりしすぎていた。 板張りの床にテーブルと椅子が2脚。セミダブルベッドに衣装ダンスそしてシャワーにトイレ。インテリアらしきものは何も置いてなかった。一息いれてアンテイーク風なラタンの 椅子に座り部屋を見渡した。三方に大きな窓があり駅の向こうにバス停が見えた。 翌朝小さく開けていた窓から入る冷気に目覚めカーテンを開けると、まだ朝の7時前なのに窓の下の通りを長いパンを無造作にバスケットに刺すように入れて 足早に通り過ぎて行く女達の姿が時折目に入った。 それにしてもこのベッドには閉口した。スプリングが壊れていて、横になるとどう体勢を取り直しても一方に体が傾いでしまう。 おまけに腰のあたりが沈み込んでしまう。体を安定することに終始して眠るどころではなかった。とうとう明け方近くに意を決して床に寝た。こんなベッドで寝ていたら翌朝には ノートルダムの「セムシオトコ」になっていたに違いない。 翌朝、モンサンミッシエルに行くために階下に降りて行くと主人が、バスで行かなくてもあと20分もしたら車が来るからそれで行くといい、と誘ってくれた。主人は 僧院の下にレストランを経営していて、そこのシェフの一人がここから毎朝車で通勤しているのだそうだ。程なくして、そのシェフのポールがやって来た。 引き潮で突然現れたかのような僧院までの一本道を彼とドライブした。英語が話せない彼とフランス語が出来ない私だった。おまけにポールはハニカミやで寡黙な男であった。しかしそこは以心伝心・・・ 他愛もない会話だから推測半分でお互いの話す内容は十分に理解できていた。10分もせずに僧院の丘の下に着いた。ものすごい数の車だった。 丘の上の僧院に通じる細い上り坂の両側に土産物屋やレストラン、遊技場などがびっしりと並んでいる。少し歩いた道の左側にポールの働いているレストランがあった。 ここだよ、と彼が指差した赤い日よけを出した可愛いレストランにはもう沢山の客が入っていた。私はハニカミやのポールに礼を言ってここで別れた。別れ際に彼は後ろ姿で 小さく手を振りながら足早に賑わうレストランの中に消えていった。赤い日よけに白地で "la-mere-poulard"と店の名前があった。 モンサン・ミシェルから戻り、宿に帰る途中で見つけた小さなレストランで食事をした。海辺の村特有の風のある夕べだった。殆ど人通りの無い村の小さな路地を歩いていたら 教会の鐘が鳴り出した。時折り肌を刺すような潮風がそのメランコリックな旋律を乗せて村の辻々を吹き抜けて行った。 鐘の音を頼りに低い屋根の並ぶ路地を幾つか曲がると広場に出た。そこには14世紀半ばに建てられた小さな教会が在った。 高く低くゆったりと間を置いて鳴り続けるその鐘の音を合図に、村人達が三々五々夕刻のミサに集まって来ていた。私も後ろのドアから中に入りミサに参加した。 萌黄色の法衣を纏った白髪の神父が物静かな声で説教を始めた。10代から20代前後の男女から成る10人ほどの小さな聖歌隊が幾つも讃美歌を歌った。圧巻はその後だった。 ジーンズにこざっぱりした白いシャツを着た大学生らしき女性が独唱をした。その朗々としたメゾソプラノの透き通るような歌声はまさしく天使の歌声だった。居合わせた若者達の表情は皆純朴で 時折り恥じらいが走る赤い頬が何とも初々しかった。ここには未だ下世話な塵に汚されていない若者の世代が家族の絆と共にしっかりと残っているように見えた。 どこか哀愁のある鄙びたこの小さな漁村が気に入った私は更にもう一晩あの忌まわしいベッドのある部屋にお世話になることにした。 |
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